第10回 粉と水の話
執筆者
粉と水といえば,関西人ならお好み焼きを連想した方もおられるでしょうが,残念ながら小麦粉と水ではありません。粉というのは,このところ何かと世間を騒がしている覚せい剤のことです。
覚せい剤といえば,法律で所持・使用等が禁止されている,使用すると精神が高揚する,使用しすぎると幻覚症状が出たりするということぐらいは,誰でも知っていることでしょう。しかし,覚せい剤の正式名称(化学名)まで知っている人はそれほど多くないのではないでしょうか。
覚せい剤の定義は,覚せい剤取締法に書いてあります。同法2条1項によれば,覚せい剤とは,フエニルアミノプロパン,フエニルメチルアミノプロパン及び各その塩類(同項1号),前号に掲げる物と同種の覚せい作用を有する物であって政令で指定するもの(同項2号)および前2号に掲げる物のいずれかを含有する物(同項3号)と定義されています(なお,3号は不純物が混入している場合も「覚せい剤」に取り込むための規定です。)。わが国で主に使用されている覚せい剤は,このうちフエニルメチルアミノプロパンの塩類であるフエニルメチルアミノプロパン塩酸塩だそうです。
フエニルメチルアミノプロパン,思わず舌を噛んでしまいそうな名前ですが,これが覚せい剤の正式名称です。
ところで,覚せい剤取締法は,フエニルメチルアミノプロパンとその塩類とを区別して規定しています。これは一体どういう理由からなのでしょうか。実は,その答えはこれらの物質の化学的性質の違いにあります。
覚せい剤の使用方法には,その水溶液を注射器で注射する方法と,加熱して気化したものをガラスパイプなどで吸引するアブリと呼ばれる方法があります。アブリの場合は火で加熱すればよいのですが,注射器で使用する場合には水に溶かす必要があります。ここで,フエニルメチルアミノプロパンの塩類は水溶性であり,水に溶かすことができますが,フエニルメチルアミノプロパン自体は難水溶性の物質ですから,水に溶かすことができません(有機化合物の多くは難水溶性ですが,塩酸と反応させて塩酸塩にすれば水溶性となります。)。つまり,注射できるのはフエニルメチルアミノプロパンの塩類ということになります。
このように,フエニルメチルアミノプロパンとその塩類には水溶性か難水溶性かという性質の違いがあるため,(もちろん,これ以外にも化学的な性質の違いはあると思いますが,専門ではないのでわかりません。),法律上もこれらの物質を別個のものとして扱っているのです。
さて,ここまで長々と話をしてきたものの,実務上,覚せい剤が水に溶けるかどうかが問題となることはほとんどありません。したがって,以上のような議論にはあまり実益がないのですが,過去にこの点が問題とされた珍しい事件がありますので,ご紹介いたします(盛岡地裁平成5年8月2日判決,同平成5年8月23日判決〔判例タイムズ825号120頁〕)。
その事件というのは覚せい剤使用の事案で,検察官は,被告人を,フエニルメチルアミノプロパンを含有する結晶を溶解した水溶液を注射したとの公訴事実で起訴しました。
通常,覚せい剤事犯では覚せい剤の種類について鑑定が行われますが,鑑定書は化学や物理学の専門用語を使って記述されており,法律家にとっては難解なものとなっています。そのため,検察庁の実務慣行として,そのような鑑定書には目を通さずに,結果だけを丸写しするということが行われていました。この事件の検察官も,「フエニルメチルアミノプロパンを検出した。」と記載された鑑定結果をそのまま引用して,被告人を起訴してしまったようです(なお,詳細は割愛しますが,鑑定では,フエニルメチルアミノプロパン塩酸塩を使用した場合でも,フエニルメチルアミノプロパンしか検出されません。)。
一方,本件の裁判所は,フエニルメチルアミノプロパンとその塩類の違いをきちんと理解していました。そして,検察官の公訴事実の誤りに気付き,この点を鋭く指摘しました。すなわち,フエニルメチルアミノプロパンは非水溶性であり,注射することができないから,被告人が注射したのはフエニルメチルアミノプロパンではなく,フエニルメチルアミノプロパン塩酸塩であったはずであり,公訴事実記載の事実と裁判所の認定した事実との間には事実の不一致がある,と。
検察庁にとって本判決は晴天の霹靂だったことでしょう。おそらく,それまではどちらでも注射できると思っていたのですから。本判決の解説も「これまでの実務慣行では,全く考慮に入られていなかった点である。本判決はこれらの実務慣行に再検討を促すであろう。」と述べています。
もっとも,本件では,検察官がフエニルメチルアミノプロパン塩類も審理の対象とするような釈明をし,被告人もこれを争わなかったことから,裁判所は,検察官の釈明のとおり「フエニルメチルアミノプロパン塩酸塩を含有する結晶を溶解した水溶液を注射した」との認定をし,被告人を有罪としています。
判決書においても非常に丁寧に認定されていますので,ご興味のある方は是非ご覧になってみて下さい。