第82回 捨印の効力
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アパートの借家契約書から携帯電話の加入申込み,はたまた学校の授業料の引落しに至るまで,提出書類に印鑑を押す場合に,欄外に捨印(すていん)を押すことが要求されることがあります。もともと捨印というのは,記載内容に訂正箇所があれば,「〇字挿入」とか「〇字訂正」などの訂正することを認める趣旨で押すものですので,自分が記載した内容に絶対的な自信があれば,捨印を押す必要はないのですが,「捨印がないと受付できません」とか言われる場合もあって,結構窓口で押し問答になることがあります。
捨印の効力については,最高裁昭和53年10月6日判決(金融法務事情878号26頁)が「いわゆる捨印が押捺されていても,捨印がある限り債権者においていかなる条項をも記入できるというものではなく,その記入を債権者に委ねたような特段の事情のない限り,債権者がこれに加入の形式で補充したからといって当然にその補充にかかる条項について当事者間に合意が成立したとみることはできない」と判示しています。
事案の概要としては,遅延損害金の記載欄が空白の金銭消費貸借契約証書に署名押印した抵当権設定者Xが,さらに主債務者とともに同証書の欄外などに捨印を押し,その後,債権者Yが司法書士に依頼して,捨印を利用した形式で遅延損害金条項の箇所に年3割による遅延損害金を支払う旨の記載をし,これを原因証書として,その旨の抵当権設定登記手続をしたというものです。主たる争点は,この年3割という遅延損害金の割合について当事者間で合意が成立したかどうかという点にありましたが,最高裁は,遅延損害金の特約は認められない(その結果,遅延損害金は利息制限法1条所定の年1割5分に減縮された利息と同率にとどまる)とした原審:広島高裁の判決を正当として是認し,Yの上告を棄却しました。
一般に,捨印というのは,一方当事者が相手方に対して,契約書等の記載内容について一定範囲で訂正権限を付与する旨の意思表示と解されますので,その合理的な意思解釈としては,当事者間で合意した基本的な合意の趣旨を変ずることなく,誤字・脱字・書き損じなどの,一見して軽微かつ明白な誤謬箇所を訂正する権限を与えたものとみるのが妥当と思われます。上記の最高裁判決は,そのような常識的な観点に沿うものであり,捨印さえもらっておけば,後は文書の所持人がどのようにも訂正できるといった安易な運用に警鐘を鳴らすものと言えます。
上記の最高裁判決からはすでに30年以上が経過していますが,捨印の意味や効果については,むしろ厳しく解釈される傾向にあります。例えば,金融庁のガイドライン等においては,金融機関が担保提供を受ける際に,行員が契約の必要事項を記載しないで,担保提供者等に必要書類への自署・押印を求め,その後に金融機関側で必要事項を記入するといった,いわゆる「捨印慣行」は,コンプライアンス上の問題があるものとされていますし,担保設定契約書などについては,締結時点において写しを交付すること等により,顧客が契約内容をいつでも確認できるようにしておくことが必要とされています。
捨印を押す立場からしますと,できるだけ空欄部分が生じないように,細かい点まで他人任せにせずに自分で記入し,できるだけ捨印を押さずに済ますか,仮に捨印を押す場合でも,最低限,提出分のコピーをとっておく(複写式の申込書の「お客様控え」には,捨印欄が省略されていることがあります)といった注意が必要となりますが,書類の提出を受ける立場としても,窓口での無用のトラブルを防ぐために,「捨印については,お客様による誤字・書き損じ等の軽微で明白な誤記箇所を当行において訂正させていただく際に利用するものとします」などの付記や説明をしておかれるのが望ましいと思われます。