第222回 終末期医療と人工呼吸器の取外し
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タイトルを見て,皆さんドキッとされたことと思います。
何度も国会で議論されては消え,また近々復活の噂のある尊厳死法案のことか?と思われた方も多いと思いますが,最初にお断りしておきますが,このコラムは,尊厳死法案に賛成するものでもなく,反対するものでもありません。あくまでも尊厳死法案が立法化されていない現状で,人工呼吸器が装着された終末期の患者さんについて,一定の条件下で病院側が人工呼吸器を取り外した場合,法律的にどのような問題が生ずるのかという,臨床的な問題について議論するものです。
まず,「終末期医療」(人生の最終段階における医療)についての過去のリーディングケースをおさらいしておきますと,(1)東海大学病院事件(1991年。末期がん患者に塩化カリウムを投与した医師が有罪),(2)川崎協同病院事件(1998年。気管内チューブを取り外して筋弛緩剤を投与した医師が有罪),(3)北海道立A病院事件(2004年。90歳の男性患者の人工呼吸器を家族の同意を得て取り外したところ,殺人容疑で書類送検されたが,後日嫌疑不十分で不起訴),(4)富山県B病院事件(2000~2005年。末期がん患者ら7名の人工呼吸器を外した件について殺人容疑で書類送検されたが,後日不起訴),などが一般的に挙げられています。
さらに遡れば,約40年前のカレンさん事件では,初めて「死ぬ権利」がクローズアップされました。もっとも,この事件では,結果的にはカレンさんが9年間にわたり植物状態で生存できたため,「尊厳死」そのもののケースとは言えないのではないかとも評されています。
カレンさん事件
1975年に,当時21歳のカレンさんが精神安定剤と飲酒により意識不明に陥り,人工呼吸器を装着されたが,半年後に植物状態となり,両親が病院に人工呼吸器を取り外すよう要請するも拒否されたため,提訴した事件。1976年にニュージャージー州の最高裁が人工呼吸器の取外しを認めたが,カレンさんは,人工呼吸器の取外し後,1985年に肺炎で死亡した。
一般に,人工呼吸器による延命が長期化することによって,患者の外観が損なわれ,家族としても「見ていられない」という感情に至ったり,医療費の負担に耐えられないといった意見が出ることもあります。ですが,多くの病院では,警察介入を恐れて,脳死(またはそれに準ずる)状態の患者の人工呼吸器を取り外す事例としては,心臓死判定時か,臓器移植目的での脳死判定時に限定している例が多く,それ以外では,積極的な肺炎治療を差し控えたり,低血圧時の昇圧剤を使用しないなどの消極的な措置にとどめている事例が多いのではないかと推測されます。もとより,昔のカレンさん事件のように,裁判所の判決や仮処分決定等により人工呼吸器の取外しを命じられるのであれば,それに従うことで形式的には問題が解決されますが,現状では,実際に日本の裁判所がそのようなドラスティックな判断をすることは期待できないところです。
厚生労働省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(2018年3月改定)では,意識不明等により患者本人の意思の確認ができない場合には,(1)家族等が本人の意思を推定できる場合には,その推定意思を尊重し,本人にとっての最善の方針をとることを基本とする,(2)家族等が本人の意思を推定できない場合には,本人にとって何が最善であるかについて,本人に代わる者として家族等と十分に話し合い,本人にとって最善の方針をとることを基本とする,(3)家族等の中で意見がまとまらない場合や,医療・ケアチームとの話合いの中で,妥当で適切な医療・ケアの内容についての合意が得られない場合等については,複数の専門家からなる話合いの場を別途設置し,医療・ケアチーム以外の者を加えて,方針等についての検討及び助言を行うことが必要である等,規定されています(なお,同ガイドラインにおいては,生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は対象とされていません)。
このうち,(1)の「本人の意思を推定できる場合」というのは,ドナーカードやリビングウィルに明記があれば,それを尊重することになりますが,単に家族が「本人は以前から『無駄な延命措置はやめてほしい』と言っていた」と説明するだけでは,人工呼吸器の取外しという「後戻りのできない」措置を講ずることには慎重とならざるをえないのが実情です。
(2)の「家族等と十分に話し合う」についても,一旦人工呼吸器を装着した患者について,どのような要件があればそれを外せるかについて,少なくとも現時点では合意が形成された状況にはないので,直ちにこれに応ずることは難しいケースが多いように思います。
結局のところ,病院としては,家族の意見と厚労省のガイドラインひいては警察介入のおそれとの板挟みとなり,医療の専門家である医師にそのような難しい法律的な問題を押し付けてよいのかという悩みを抱えることになります。
ただ,冷たい言い方にはなりますが,家族の「楽にさせてあげてほしい」という希望と「本人にとって最善の治療とは何か」という問題とは,どこまで行っても完全な一致点を見出すことが困難な関係にあります。
ガイドラインにおける「家族等と十分に話し合う」場としては,院内に解決の窓口を設けるだけでは,単に患者と病院との紛争を解決するだけの機能しかなく,果たして患者本人が何十年も生きてきた人生そのものの最終段階にふさわしい「解決」と言えるのか,甚だ疑問があるように思います。もとより,患者本人の「推定的意思」なるもの自体,フィクションにフィクションを重ねた架空の産物ですから,万人が納得できるような「本人にとって最善の治療」に少しでも近づけるためには,意識を失っている患者本人の人生観・宗教心・価値観のほか,遺される家族等の立場や感情を十分に理解し,それを的確に支えられるカウンセラー的な役割をもつ体制の構築が必須です。そうでないと,単に病院の免責だけの制度であるとの誹りを免れません。この点,ガイドラインでは「複数の専門家からなる話し合いの場」とあるのみですが,行政による具体的なサポート体制や医療系のADR(裁判外紛争解決手続)まで踏み込んだ制度設計が望ましいと考えるゆえんです。