最新ニュースから学ぶ米国の法制度⑥(刑事裁判の日米の違い)-水原一平氏による横領事件-
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2024年は大谷翔平選手にとって、波乱に満ちた1年でした。信頼していた水原氏の裏切りから始まり、最終的には悲願のワールドシリーズ制覇、2年連続満票MVP(しかも指名打者では初のMVP)を獲得し、大谷選手の精神力の強さを改めて感じさせられました。衝撃のニュースから早くも1年が経とうとしていますが、ようやく2025年2月6日(現地時間)に判決の言い渡し、という最終局面を迎えています。今回は、水原氏の量刑をめぐる裁判資料を見ながら、日米の刑事裁判の違いを見ていきたいと思います。
(なお、以前のコラムは、基本的に起訴前に執筆したものですので、水原一平さんの違法賭博問題、という表現をしていますが、正式に起訴され、起訴内容を認めたため、本コラムでは「水原一平氏による横領事件」、という表題としています。また正確には「銀行詐欺事件」という表現が正確ですが、読者に分かりやすいように「横領事件」と表現しています)
1 何度も延期される期日の怪
今回、水原氏の裁判で何度も期日が延期されたことに違和感を覚えた方もいるかもしれません。量刑の言い渡し期日の変更だけでも3回に渡り(24年10月→12月→25年1月→2月)、その理由としては主に水原氏のギャンブル依存症に関する医師の意見書の準備が完了していないことが挙げられていました。
アメリカでは、裁判期日の変更が当事者(民事であれば原告と被告、刑事であれば検事と被告人)の合意(Stipulation to Continueといいます)により、申請されることが良くあります。当事者が合意したとしてもそれだけでは延長できず、裁判所の許可が必要です。つまり、期日を延期する場合には、反対当事者に延期について同意してもらい、合意書を作成後、裁判所の許可を得る、という流れになっています。米国の刑事訴訟法の建前上は、迅速な裁判の実現を前提にしており、延期の理由については慎重に検討が行われるはずですが、実務上はかなり広く延期を認める運用になっています。そのため、日本に比べると自由に裁判期日の変更が行われており、今回の量刑言い渡し期日の延期もそれほど珍しいことではありません。
一方で日本の刑事裁判で公判期日の変更(刑事訴訟法276条)をしようとすると、簡単には済みません。被告人や弁護人の事情により期日を変更しようという場合には、まず裁判所に対して期日変更の上申を行います。この際、期日変更の必要性とそれを裏付ける具体的な資料を提出する必要があります(刑事訴訟規則179条の4)。この理由というのは「やむを得ないもの」以外認められません。例えば、弁護人が入院した、必要不可欠な証人が出頭不可能になった等です。今回の水原氏のようなケースについて日本の裁判所の運用で考えてみると、裁判所は、判断に必要不可欠な医師の意見書が出来ていない、ということで1度は公判期日の変更は認められるかもしれませんが、無条件で3度の変更を認めることはないと思います(少なくとも弁護人の「読みの甘さ」を指摘され、裁判所から厳しくお𠮟りを受けると思います)。単に当事者が合意をすれば(基本的に)延長が認められる米国と大きく運用が異なります。
2 米国の裁判は個人登山、日本の裁判は登山ツアー
このような違いが出てくるのは、そもそも米国と日本で事案に対する裁判所の関わり方が大きく異なることに起因しているのではと考えています。登山で例えると、米国の裁判は個人登山、日本の裁判は登山ツアーに似ていると思います。
米国の裁判の当事者は、それぞれ好きなルートで山頂を目指します。色々な証拠収集の方法(Discoveryといった証拠収集)を駆使し、ライバルを蹴落とす手段(様々なMotionでの相手の主張の弾劾)を使いながら山頂(Trial=陪審裁判)を目指します。裁判官は2合目、3合目といったチェックポイントでそれぞれの進み具体を確認しますが、登山に同行することはありません。当事者で勝手にやってね、山頂(陪審裁判)に来たら教えてね、というスタンスです。ですから、途中で当事者が「登山道具の準備が不十分だったのでチェックポイントに着くのがちょっと遅れそうです。ライバルも遅れてOKと言ってます」と言えば、フレキシブルに対応してくれます。
一方で、日本の裁判は、登山ツアーです。山岳ガイドである裁判所が登山者(民事事件であれば原告や被告、刑事事件であれば検察官や被告人)と伴走して山頂を目指します。山岳ガイドが描いている登山ルートがあり、そこから大きく逸脱することは許されません。また、登山者がイレギュラーなことをする場合には逐一山岳ガイドの許可を得る必要があります。そのため、登山者が「登山道具を家に忘れたので出発日を遅らせてもらえますか?」なんて言っても簡単に出発日を変えてはくれません。
このような裁判所の関わり方の違いは、(近年でこそ裁判員制度が取り入れられましたが)職業裁判官が証拠などを精緻に判断し、ブレのない判決が重視される日本と多種多様な人種が入り混じった陪審員の多様な意見が反映される米国との違いなのかもしれません。これらはどちらが良い、悪いという話ではありません。日本の裁判は、ブレのない予見可能性が高い判決が期待できる一方、当事者が争う手段は限られ、裁判が予定調和になるかもしれません。米国の裁判は、多様な意見を反映することができ、当事者による多彩な主張立証が裁判結果を左右することから、革新的な判決や新たな法秩序、権利を創り出すことができるかもしれませんが、常識から外れた判決が出てしまったり、腕のいい弁護士を雇える金持ちが有利になり、裁判がマネーゲームになるかもしれません。裁判制度のありかた一つを見ても、国民が何を重視するのか、というのが分かって面白いところです。
3 それぞれの量刑意見の内容は?
さて、本題に戻って、2025年1月23日に提出された検察官と弁護人の意見を見ていきましょう。検察官は、57カ月(4年9カ月)の禁固刑が妥当な量刑、弁護人は、18カ月の禁固刑(1年6カ月)が妥当な量刑であると主張しています(なお、米国矯正局は48カ月の禁固刑が妥当、という意見)。今回の量刑意見では、検察側が①水原氏のギャンブル依存症が今回の事件の要因になったか、という点をメインで論じ、弁護側はその争点に加え②その他水原氏に有利な情状を厚く論じています。検察官の意見は、10頁にまとめられ、争いのない犯罪事実の経緯(単なる説明部分)を省くと約6頁程度とかなりコンパクトです。それに対して、弁護人の意見は25頁とかなりの分量があり、多くの過去の判例を引き合いに出して、18カ月の禁固刑という刑罰がいかに適切か、ということが書かれており、双方の書面には温度差があります。
4 争点①-水原氏のギャンブル依存症が今回の事件の要因になったか
- 検察側の主張
検察側は、今回の犯行は、水原氏のギャンブル依存症が要因になったのではなく、彼の“Greed”(貪欲)によるものであると主張しています。まず、32万5000ドルもの野球カードを大谷選手のクレジットカードで買ったことや歯科矯正費用を着服したことはギャンブルとは全く無関係であることを指摘します。そして、ギャンブルで勝った場合の払戻金の口座を自分のものに指定し、大谷選手の口座に入金することはなかったことは、ギャンブル依存症という水原氏の主張の前提を崩すに足るもので、Greedによるものだと主張しています。検察官は「仮に水原氏がギャンブル依存症だったとしても、それが今回の事件の主な要因ではない」としています。 - 弁護人の主張
これに対し、弁護人側は、水原氏が18歳の頃から週に4、5回カジノに通っていたことやその借金を両親がカバーしていたことを明らかにして、水原氏が長年ギャンブル依存症に苦しんでいたと訴えます。そして、医師が「水原氏のギャンブル依存症は彼のうつ病と大いに関連」しており、「水原氏は、ギャンブル依存症に侵された『真人間』であり」「ギャンブルに資金をつぎ込むという衝動を満たすような大金が盗める特殊な状況下にいた」と診断したことを引用しています。さらに、United States v. Caspersenというケースを引き合いに出し、3600万ドルを横領し、量刑ガイドライン(最新ニュースから学ぶ米国の法制度⑤ 参照)に基づけば151カ月から188カ月の禁固刑を受ける可能性のあった被告人の量刑がギャンブル依存症を理由にガイドラインをはるかに下回る48か月まで減刑されたとして、水原氏のケースも同じようにガイドラインを大幅に下回る減刑をすべきであると主張しています。
5 争点②-その他の水原氏の情状について
- 検察側の主張
検察は、大谷選手が被った損害が金銭的なものだけではなく、彼の評判を貶めたことを非難しています。大谷選手が水原氏の犯行を知らなかったことは疑わしいとする「大谷共犯論」を唱える記者や投稿があると指摘し、大谷選手が完全なる被害者であることを再度強調しています。一方で、水原氏が横領を行う立場にないこと、今回の件が大きく報道され、水原氏が今後同じような行動をする状況下には置かれないこと、水原氏が刑期を終えた後に強制退去になる可能性が高いこと、水原氏が早期に罪を認め、任意で携帯電話などの証拠の提出に協力したこと等は、減刑の要素となる、と指摘しています。 - 弁護人の主張
弁護人は、家族からの陳述書を資料として提出し、水原氏が家族に対しては非常に善良な人間であったこと、野球における通訳として非常に優れていたこと(この点について日本ハムファイターズの役員が陳述書を提出しています)、水原氏の妻がビザを取得できず離れて暮らしていたことや大谷選手へのサポートに時間を捧げ、一方で生活するために十分な賃金が支給されていたわけではなかったと主張しています。大谷選手へのサポートが365日24時間体制であり、それに対して賃金が十分ではなかったという主張については、二つ意味があります。まず、大谷選手へのサポートをするために自分の時間を捧げたことで大変なストレスをためていたことから、(医師がうつ病と大いに関連するとしている)ギャンブル依存症が今回の事件の主な要因であると印象付けるとともに、ボウヤー氏の営む違法賭博が「金銭的に苦しむ自分の生活の救いになるかもしれない」と感じたというストーリーに繋げています。一方で、弁護人(水原氏の陳述書でも触れられていますが)は、大谷選手へのサポートは水原氏の心からの誇りであり、サポートが24時間体制であったことや金銭面で苦しんでいたことについて大谷選手を責める趣旨ではない、とも説明しています。
6 裁判所の量刑判断について
裁判所としては、独自に量刑は判断できますから、減刑することも、逆に検察の求刑を上回る刑を科すこともあり得るところです。裁判所の量刑については、やはりギャンブル依存症が主な要因であったかどうか、という点が量刑に一番大きく影響してくる部分であろうと思います。これが認められれば、量刑が検察の求刑から減刑される可能性も十分ありえると思います。
7 米国と日本の情状弁護の違い
被告人が罪を認めた事件は「認め事件」と言われ、主な争点は、犯罪の動機や態様、被告人の性格、年齢、境遇等といった「情状」となります。水原氏の弁護人は、水原氏の配偶者、両親の陳述書(letter)を証拠として提出していますが、かなりの紙面が水原氏が「良い人間である」ということや「収監されると家族がバラバラになる」という「家族から見た水原氏という人間の描写」に割かれています。
一方で、日本の情状弁護で「この被告人は家族にとっていい人間である」「家族と離れ離れになるのは酷」という主張をすることはあまりありません(少なくとも強く主張することはありません)。主に「もし社会に出たときにきちんと私が同じ過ちを犯さないように監督します」という将来に向けた約束、社会に出た際の受け皿という点を家族に語ってもらうことが多いです。(これは先に述べたとおり、米国では陪審員という制度があり、陪審員の感情に訴えかける傾向が強くなる、という点から説明できるかもしれませんが、陪審員は量刑を決めず、裁判官が決めるので、直接的には説明できません。)
この点もやはり米国と日本の文化的な背景の違いがあるのではないかと考えています。米国では個人の権利や自由が重視される傾向があり、被告人が「善良なる市民の一人」であること(今回の水原氏の情状でもこの点は繰り返し強調されている)、被告人への刑罰は被告人の家族といういわば無辜の人たちへ大きなインパクトを与えることが考慮される事情として重視されます。
一方で、日本では社会秩序の維持、という視点が重視される傾向にあり、「この被告人が出所後に社会秩序に戻れる」という担保が重視されているとみることができます。また、被告人の家族を別の個人とみるのではなく、家単位で捉え、あくまで「被告人の家族」という役割で見る傾向があるように思います。
ですから、今回の水原氏の主張、家族の訴えは、日本人的感覚からすると「水原氏が善人かどうかなんて量刑に関係ない。なぜなら犯罪した時点で悪人だから」「家族と離れ離れになるというのも自業自得だし、加害者の家族が被害者ぶるのはおかしい」と感じられてしまうところではないでしょうか。
これについても、どちらが良い、悪いという話ではありません。裁判というのは、ともすれば浮世離れした世界の話、と思われがちですが、その根底にはいろいろな文化的背景やそれぞれの国のあり方というものがしっかり反映されているのだということです。
この「家族」と「個人」という対比で一つの映画が頭に浮かびました。
2019年制作の映画「フェアウェル」(監督:ルル・ワン)では、中国を舞台に末期がんに侵された祖母に余命を告げるかどうかをめぐって、このアジア的「家族観」と欧米的「個」の対比が描かれています。家族やコミュニティの安定を重視する中国育ちの家族は「告知しない」と主張し、米国育ちの主人公は個人の自由意思を重んじ「告知すべき」と反発します。 この作品では、どちらの価値観が良い、悪いという描き方はしていません。中国人の両親のもとで生まれ米国で育った主人公が価値観の違いに葛藤しながらも祖母との交流を深める様子を淡々と描いています。この映画は、全米でわずか4館の限定公開から異例のヒットを記録しましたが、こういうアジア的家族観が西欧的価値観を持つ人には新鮮なのだろうと感じました。 本稿と全然関係ないですが、アイコという日本人キャラ(中国語が分からずオロオロする女性を水原碧衣さんが好演しています)が出てきますが、「あー、日本人ってこんな感じに見られているのね」というのもまた興味深かったです。 |